- 自分の目が信じられなかった。石巻は町や村が完全に水没していた。護送車やパトカーがたくさん並び、聞こえるのはヘリコプターの音。何度も旋回し、上から遺体を捜索しているのだという。津波の影響からか冬だというのにねばついた湿度と、なんとも言えない潮と油の匂い、そしてがれきのほこりが体にまとわりついたのを覚えている。その当時、停電や混乱から、仙台にいた私たちには被害の全貌は届いていなかった。後になって知ったのだが、そこは全校児童108人中74人、教員10人が亡くなったという悲惨な被害を負った大川小学校の近くだった。
私たちは、水没した街から橋を探し、ひとつひとつ点検を行い、破損があるのか、どのくらいの破損状況なのかを確認していった。その近くでは行方が分からない、家族や友人たちの捜索をしていた。誰も無駄口はかけない、ただ粛々とこなすだけ。そんな中、消防団の方に声をかけられた。「今日はあそこのあたりで見つかったよ」と。その彼の背中は疲労と哀れみを背負っていた。今まで、人の生活を支えるこの建設コンサルタントの仕事に誇りと自信をもっていた。石巻以外にも震災直後、そういった現場を多く訪れ点検等を行ったが「橋の点検をしている場合なのか」と、その時の私たちは無力だった。
北上川を上った津波はこの大きな橋までも破壊し、
海と堤防からあふれた津波は小学校とその地区を襲ったという。
本当の“復興”とは。私たちができることを常に問う
- 建設コンサルタントというのは、暮らしを支えるインフラを作るのが仕事。常時の仕事もあるが、一方、災害等が起こるとその都度、我々は被災したインフラの点検、補修設計、破損が激しい場合や増築する場合は新規の設計業務が舞い込む。私は、石巻以外にも、南三陸、気仙沼、宮古など、震災復興としておよそ20か所の仕事に携わった。橋をかけなおす、壊れた道路を直す、そして街を作り直す。そういったことが復興というなら、きっと復興は順調に進んでいるのだろう。現に、海外から絶賛された早期の復旧は目を見はるもので、多くの人が喜び、地元住民からも喜びの声もいただいた。凄惨な現場の中で無力感になりながらの緊急点検は無駄ではなかったと、励みになった。
震災後、大川小学校へ度々足を運んでいる。付近は、震災当時と何も変わっていない。家が一軒も建っていないのだ。戻りたい気持ちはあるかもしれない。しかし、戻れない、戻りたくない、ということなのかもしれない。震災の直後、避難市民の姿が大きくピックアップされ、早く、快適な復興をしなければ、早くもといた地域に戻してあげなくては、という雰囲気が日本全体でなかっただろうか。橋を正しく、安全にかけることは簡単にできる。しかし、そこに「人」が戻ってくるのは別次元のことだと、今回身をもって思い知ったことである。戻ることが大切ではなく、そこに住む「住民」の心に寄り添い、その地域の想いをくみ取っていかなければならない。災害の早期復興は大切であるが、今後の建設コンサルタントは、「なにが復興なのか」を常に問い、「地域の想い」と共に歩まなければならないと感じたのだ。
大川小学校の周り。かつてあった住宅はなく、小学校だけが震災遺構として後世に語り継がれていく。