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東日本大震災×八千代エンジニヤリング

Episode 3
北日本支店
道路・構造部

K.WATANABE

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被災者として、現場に立つ。
北日本支店のある仙台市内のビル6階、震災の際はそこで作業を進めていた。揺れているというより「振り回された」という状況。まるで遊園地のコーヒーカップをめいっぱいぐるぐると回しているような状況だった。「ビルが倒れて死ぬのか、それとも天井が落ちてきて死ぬのか」と、唖然とその状況を見守るしかなかった。
状況が落ち着いた所で、妻や子どもたちに連絡をしたが、長女からは電波の状況で連絡が取れなかった。長女はその日、仙台港にあるアウトレットに出かけていた。そこは津波もあり近くではコンビナートが爆発していた。会社では業務停止となり帰宅したが、自宅もぐちゃぐちゃなうえ、停電や水道から赤い水が出るなど、被害を受けていた。そして、ようやく20時頃「中野栄小学校に避難する」と長女が15時頃に送ったメールが届いた。すぐに車を走らせるが、渋滞や道路状況から、長女と会えたのは翌日の朝5時。長女は3階の教室の椅子に座っていたが、疲労で顔が変わり妻は素通りしてしまったほどだった。
その後も電気が来ない、ほしいものが買えない、電車やバスが動かずどこに行くにも歩くなど、まるで昭和初期に戻ったような通常ではない生活となった。震災発生からおよそ1週間後、石巻市昭和地区、入釜谷地区の緊急橋梁点検の依頼を受け、現場に向かった。


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石巻市昭和地区、入釜谷地区の震災直後の様子




震災現場での私たちの仕事
自分の目が信じられなかった。石巻は町や村が完全に水没していた。護送車やパトカーがたくさん並び、聞こえるのはヘリコプターの音。何度も旋回し、上から遺体を捜索しているのだという。津波の影響からか冬だというのにねばついた湿度と、なんとも言えない潮と油の匂い、そしてがれきのほこりが体にまとわりついたのを覚えている。その当時、停電や混乱から、仙台にいた私たちには被害の全貌は届いていなかった。後になって知ったのだが、そこは全校児童108人中74人、教員10人が亡くなったという悲惨な被害を負った大川小学校の近くだった。
私たちは、水没した街から橋を探し、ひとつひとつ点検を行い、破損があるのか、どのくらいの破損状況なのかを確認していった。その近くでは行方が分からない、家族や友人たちの捜索をしていた。誰も無駄口はかけない、ただ粛々とこなすだけ。そんな中、消防団の方に声をかけられた。「今日はあそこのあたりで見つかったよ」と。その彼の背中は疲労と哀れみを背負っていた。今まで、人の生活を支えるこの建設コンサルタントの仕事に誇りと自信をもっていた。石巻以外にも震災直後、そういった現場を多く訪れ点検等を行ったが「橋の点検をしている場合なのか」と、その時の私たちは無力だった。


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北上川を上った津波はこの大きな橋までも破壊し、
海と堤防からあふれた津波は小学校とその地区を襲ったという。





本当の“復興”とは。私たちができることを常に問う
建設コンサルタントというのは、暮らしを支えるインフラを作るのが仕事。常時の仕事もあるが、一方、災害等が起こるとその都度、我々は被災したインフラの点検、補修設計、破損が激しい場合や増築する場合は新規の設計業務が舞い込む。私は、石巻以外にも、南三陸、気仙沼、宮古など、震災復興としておよそ20か所の仕事に携わった。橋をかけなおす、壊れた道路を直す、そして街を作り直す。そういったことが復興というなら、きっと復興は順調に進んでいるのだろう。現に、海外から絶賛された早期の復旧は目を見はるもので、多くの人が喜び、地元住民からも喜びの声もいただいた。凄惨な現場の中で無力感になりながらの緊急点検は無駄ではなかったと、励みになった。
震災後、大川小学校へ度々足を運んでいる。付近は、震災当時と何も変わっていない。家が一軒も建っていないのだ。戻りたい気持ちはあるかもしれない。しかし、戻れない、戻りたくない、ということなのかもしれない。震災の直後、避難市民の姿が大きくピックアップされ、早く、快適な復興をしなければ、早くもといた地域に戻してあげなくては、という雰囲気が日本全体でなかっただろうか。橋を正しく、安全にかけることは簡単にできる。しかし、そこに「人」が戻ってくるのは別次元のことだと、今回身をもって思い知ったことである。戻ることが大切ではなく、そこに住む「住民」の心に寄り添い、その地域の想いをくみ取っていかなければならない。災害の早期復興は大切であるが、今後の建設コンサルタントは、「なにが復興なのか」を常に問い、「地域の想い」と共に歩まなければならないと感じたのだ。

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大川小学校の周り。かつてあった住宅はなく、小学校だけが震災遺構として後世に語り継がれていく。



Episode 4
事業統括本部国内事業部
河川部

M.TERAWAKI

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震災の記憶を風化させてはいけない
発災から約3ヶ月後、私たちのチームは復興計画の任務を受け、岩手県久慈市と洋野町へ向かった。そこは、私知っている岩手県の生き生きと活気に溢れた漁港のまちとは全く異なるものだった。久慈市では死者4名・行方不明者2名・負傷者8名、洋野町では幸いにも死者・行方不明者は0名と岩手県南部に比べると被災者は少なかったものの、津波に流されたがれきが積み上げられ、重たく寂しい雰囲気を纏うまちに変わっていた。
私たちはそこで、湾口防波堤の計画、防災集団移転事業(※)、JR八戸線駅の復旧支援、宅地嵩上げ、種市漁港の津波避難対策やハザードマップ作成など多くの事業に携わった。「1日でも早く元の活気に満ちたまちに戻ってほしい」と、毎日必死に業務に邁進していたことを覚えている。しかし、そう思う一方で、「再び同じまちを復興することが正しいことなのか」と強いジレンマを感じていた。

※防災集団移転事業:災害で被害を受けた地域や将来被災する恐れのある地域から集団で移住してもらう事業のこと

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被災した洋野町種市漁港。本州一のウニ生産地であった。



岩手県および宮城県は、これまで繰り返し津波による被害を受けてきた地域だった。明治三陸地震(明治29年/1896年)の津波では死者約2万2千人、流出、全半壊家屋1万戸以上、昭和三陸地震(昭和8年/1993年)では死者約3千人の被害があった。そして被災した各地にはそのことを忘れないよう地震時には津波や高台への避難を伝える石碑が建てられている。だが残念なことに、地域に暮らす人々に伝承は忘れ去られ、震災時には避難を怠ったことで多くの人が津波に巻き込まれた。明治、昭和の津波の教訓を踏まえて、地震を感じたらすぐ高台への避難を徹底していれば2万2千人の被災者は少なくできたはずなのだ。

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自分の命は自分で守る “教訓”と“知恵”とを伝える
昭和36年に災害対策基本法が作成され、日本は国土強靭化を目指して堤防や盛土といった対策が進み災害に強い街づくりが行われてきた。その取り組みによって人々が安心・安全な日常を送ることができる一方で、人々が国に頼りすぎてしまい、国民一人ひとりの危機管理や災害に対する対応は脆弱化し、災害に対する意識が薄れているように感じる。
時間と共に傷が治っていくのと同じように、人々のつらい思いも風化する。だが、過去の教訓となるべき“教え”は風化させてはいけない。震災の“教訓”と、自分で自分の命を守る“知恵”を伝えていかなければならないと感じた。
そう考えた私たちは、小学生の子どもたちに被災地における津波の高さを伝える津波避難看板を小学生自ら設置してもらったり、ハザードマップの見方や使い方、避難方法などを伝える活動を始めた。震災から10年経った今も、宮城県多賀城高等学校の外部講師として状況に応じた避難行動を考える防災ワークショップを行っている。災害の時に、『自分たちで考え、命を守る行動をする』ことが大切で、私たちが子どもたちや地域の方々に伝えられるのは「災害のわがこと化」することに尽きると考えている。

terawaki4.jpg宮城県多賀城高等学校での防災ワークショップの様子



次の百年、千年先を見据え行動する
東日本大震災を含む近年の大規模災害を経て、防潮堤や河川堤防などのハード対策では100%人々を災害から守れないことを再認識した。これまで日本で起きた多くの災害教訓を活かし、今後発生する首都直下型地震や南海トラフ巨大地震などを想定し、どういったまちづくりが災害に強いまちなのか。災害時にはどう自分の命を守るのか。を考え、今から備えることが大切だと感じている。
過去を振り返り学ぶことで満足するのではなく、人口減少や高齢化していく日本に合った暮らし方、そして災害といったいざという時の対応を、私たち建設コンサルタントは示していく必要がある。今から100年、1000年先の未来を描き、行動することで自分たちの子孫が、災害から命を脅かされる心配がない、安心して暮らせるようなまちづくりを目指していきたい。

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