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八千代エンジニヤリングが毎月お届けするちょっとイイ話

地球の海面変動 砂嘴は語る1

  • 環境

いつも豊かな表情を見せてくれる海に魅かれる方は多いと思いますが、海岸線自体の変化にまで気をとめる方は少ないのではないでしょうか。しかし実は地球誕生以来、その姿を大きく変え続けてきた海岸線。今月も、海岸地形の移ろいについてお話します。

砂嘴は語る

砂嘴って何だ?

Written by oishi 大石朗

みなさん、「砂嘴」(さし)って言葉をご存知ですか?砂丘が、ちょうど鳥の嘴(くちばし)のように海に突き出た海岸地形のことです。 日本では、あの日本三景として有名な天橋立が「砂嘴」です。 では、この砂嘴というものは一体どのように生まれるのでしょうか。

地球の海面変動

46億年前に地球が誕生して以来、さまざまな原因で海の水位は変動(海面変動)を繰り返してきました。 例えば、氷河期では地上の水が氷河として固定されるために海面水位は低下し、最終氷河期の最盛期には-80m~-130mまで低下していたと考えられています。 そして1万年前に氷河期が終わると、日本周辺では水位の上昇が始まりました。 海岸によってその変動具合に差はあったものの、日本全体ではおおまかに、1万年前で-40m、8000年前で-20mと低下していたものが、 6000年前では+4m~+6mに上昇へ転じています。その後も変動を繰り返しながら現在の水位に至っているわけですが、このような海面変動は、 海岸の形状変化にも大きな影響を与えました。(図1)


図1:後氷期の海水準の変化

姿を変えてきた天野橋立

天橋立は、北の京都府宮津市江尻地区から南の文殊地区まで延びて、宮津湾と阿蘇海を区切る形の大天橋と、文殊地区で陸地に沿って南に延びる小天橋があります。長さは3.2km、幅は20m~170m(付け根付近)あり、 北側の傘松公園からの「股のぞき」、南側展望台からの「飛龍観」など、昔から有名な景観を見せています。

図2の国宝「天橋立図」は、雪舟による天橋立のスケッチですが、室町時代の天橋立の様子が極めて詳細に描かれています。まだ小天橋がなく、 大天橋も智恩寺まで来ていなかったようです。開口部は約250mも開いていて、現在みられる「切戸」などは影も形もありません。(図2及び図3)

天橋立については、ほかにもいろいろな時代の絵図や記録が残されています。 ところがそれらを見比べてみると、日本三景天橋立は時代によってその姿形が違うことに気が付きます。 この「違い」は天橋立の砂嘴形成過程と関係あるのではないかと、京都大学の岩垣名誉教授が 最近「天橋立物語」という本にまとめられましたので、興味を持たれた方はぜひご一読下さい。



図2:国宝「天橋立」雪舟(京都国立博物館HPより)

図3:現在の地形(Google Earthより)

ところで、天橋立の東側、京都府舞鶴市の五老岳展望台から北を見ると、まるで鶴が翼を広げたような形の舞鶴湾の向こう側に火力発電所が見えます。 そこは「浦入」の地域(写真1)で、10年ほど前までは、「松ヶ崎」と呼ばれる長さ300mの砂嘴がありました。 現在は火力発電所の敷地となって埋め立てられてしまいましたが、発電所建設にあたって行なわれた遺跡発掘調査では、 「縄文の丸木船」が発見されています。推定全長約8m、幅80cmのこの大型 丸木船は縄文時代前期(約5300年前)のもので、松ヶ崎の砂嘴の付け根付近から舳先を南(外海)に向けた状態で、 舟着き場遺跡と共に発掘されました。まさに、砂嘴が芽生える直前まで、外海を航海し、異国との文化を交流させていたのです。

一方、松ヶ崎の先端では弥生時代中期の水田跡が見つかっています。これは、約2200年前にはこの地に砂嘴が出来上がっていたことを示しています。 では、この2つの時代を結びつける3000年の間に、この地で一体どのような事象が起こり、砂嘴の形成、海岸の変化をもたらしたのでしょうか。 以下、海面変動に関連させて考えてみたいと思います。



写真1:浦入

写真2:縄文の丸木船
(京都府立丹後郷土資料館より出展)

天の橋立に見られる砂嘴のうつろい

砂嘴は、「沿岸標砂」の産物です。沿岸標砂とは沿岸流によって運ばれる砂のことで、天橋立の場合、北側の丹後半島の波見川、瀬屋川、 畑川から流出した土砂が、その起源となっています。

冒頭でもお話しましたが、氷河期が終わった1万年前の海面は、現在よりも40mも下がっていました。 当時の宮津湾は陸地で、河川からの土砂は直接日本海に排出されていました。その後、上昇に転じた海面は、8000年前には-20m付近に達しますが、 沿岸流の流れが弱まっていた当時の土砂は、かつてのように海まで至ることなく、各河川の河口部に三角州を作って堆積していきました。

その後も海面はさらに上昇を続け、6000年前にはついに+6mまで達しました。この事象は縄文海進と呼ばれていますが、当時の日本海の荒波は宮津湾の奥にまでおよんで、 強い沿岸流を発生させました。先の河口の三角州堆積物は、その強い沿岸流に運ばれて阿蘇海の沿岸に堆積し、 海岸段丘を形作りました。

こうした海面の高い状態は3000年間ほど続きましたが、天橋立の形成は4500年前頃からの海面の低下にともなって始まりました。 海面低下にともなって沿岸流が次第に弱まり、土砂堆積が阿蘇海の奥まで届かなくなると、 土砂は現在の江尻付近に堆積して、低地を形成しました。そして3000年前頃になるといよいよ、天橋立が芽吹きだしたのです。

弥生時代(2000年前)に砂嘴の長さは約1km、平安時代(約1000年前)で1.5km、室町時代(500年前)には2.5kmになりました。そして200年前に 大天橋が文殊に達し、100年前になってようやく小天橋がその姿を現しました。(図4)

天橋立は、籠神社付近に宮殿を構えていたイザナギノミコトが昼寝をしているときに、 天に通うために立て掛けておいた梯子が倒れてできたものだと言われています。 昼寝を始めたのは縄文時代、目が覚めたのが古墳時代、梯子の長さは1km~1.5km、昔は昼寝の時間も長く、天もずいぶん低かったようですね。






来月の予告

次回は、北海道の野付崎についてお話したいと思います。お楽しみに。


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